中原の虹
以下はWikipediaより引用
要約
『中原の虹』(ちゅうげんのにじ)は、浅田次郎の長編小説。『小説現代』にて約3年半にわたる連載を経て、2006年から2007年に全4巻が講談社で刊行された。講談社文庫では2010年9-10月に刊行。
『蒼穹の昴』の続編。義和団の乱(1900年)を描いた『珍妃の井戸』を間に挟んで、義和団の乱から7年後、日露戦争後の光緒新政の時代から物語は始まる。
本作の続編は『マンチュリアン・リポート』である。
第42回吉川英治文学賞(吉川英治国民文化振興会主催)を受賞(2008年)。
あらすじ
舞台は清朝末期の光緒33年(明治40年、1907年)から民国5年(大正5年、1916年)6月の中国。海外列強により蚕食されつつある状況を憂いた西太后は、かつて幽閉した光緒帝と共謀して自身の手で清を滅ぼすことを決意。落日を迎える清朝に代わり覇権を握らんと各地の軍閥がしのぎを削る中、占い師に王者となると予言された馬賊の張作霖は、己の野望を叶えるために苛烈な戦いに身を投じる。その戦いは、彼に従う李春雷や周囲の人間たちの運命を大きく変えていくことになる。
登場人物
李春雷(リイ チュンレイ) / 雷哥(レイコウ)
新民府の馬賊の総攬把(ツォンランパ)。<1875年3月19日 - 1928年6月4日>「鬼でも仏でもねえ。俺様は張作霖だ」。モーゼルと白馬が自慢。小柄・色白・二重眼で女のように美しいと描写されるが、知力胆力に優れ、敵には冷酷無比である。占い師の白太太(パイタイタイ)から、「いずれ満洲の王者になる」と予言され、満洲の祖宗を祀る永陵から天命を示す「龍玉」を手に入れる。奉天(現瀋陽)での住居だった張氏帥府は一般公開されている。1920年7月14日に勃発した安直戦争で、奉天派の張作霖が直隷派を救援するために関内に大軍を投入した。
張学良(チャン シュエリャン) / 漢卿(ハンチン)
張作霖の馬賊の二当家(アルタンジア)。普段は八角台で豆腐屋を営む。平素は何事にも「好好(よろしい)」と応えている鷹揚な「好大人」だが、馬賊としては戦闘力・貫禄を備えた実力者。
張作相(チャン ヅォシャン) / 白猫(パイマオ)
清朝第9代皇帝咸豊帝の妃(1835年11月29日 - 1908年11月15日)。実子である第10代皇帝同治帝と甥の清朝第11代皇帝光緒帝を据えて垂簾政治を行う。光緒24年(1898年)、光緒帝の親政の為に一度は頤和園へ隠退するが、戊戌の変法の100日後戊戌の政変で復帰。光緒帝が崩御した11月14日、溥儀<1906年2月7日 - 1967年10月17日>を後継者に指名するとともに、溥儀の父(光緒帝の異母弟、醇親王奕譞の五男)、醇親王載灃(ツァイファン)<1883年2月12日 - 1951年2月3日>を監国摂政王に任命して政治の実権を委ね、翌日に74歳で崩御。
若き清朝第11代皇帝(1871年8月14日 - 1908年11月14日)。父は醇親王奕譞(1840年 - 1891年)。母は西太后の妹醇親王妃、葉赫那拉·婉貞で、西太后の甥にあたる。妻も西太后の姪孝定景皇后、葉赫那拉·靜芬。先帝同治帝とは父同士、母同士が兄弟姉妹の従兄弟にあたる。光緒24年(1898年、戊戌の年)に親政を行おうとするが失敗、その後は政権に復帰した西太后によって中南海の瀛台(インタイ)に幽閉される。死後、清西陵の崇陵に埋葬された。中南海全景(手前の島が瀛台)。
李春雲(リイ チュンユン) / 春児(チュンル)
科挙に2度挑戦したが失敗した挙人。曹植の『贈白馬王彪』にある「心悲動我神,棄置莫復陳。丈夫志四海,萬里猶比鄰。」を引用し、軍人に転ずる。李鴻章と栄禄に認められ北洋軍の最高権力者となる。1908年に西太后が病没し、宣統帝が即位、宣統帝の父醇親王載灃が摂政王になると、1909年に載灃は戊戌の政変で兄光緒帝を裏切った袁世凱を罷免。袁は三年の間、河南省項城に雌伏する。1911年、武昌蜂起が起こり転機を迎え、北京に呼び戻され平漢線の前門西駅に降り立つ。
東三省総督。袁世凱の腹心。光緒12年(明治20年、1887年)、科挙に合格。進士。翰林院から袁世凱配下の新建陸軍にて軍人となる。
革命運動に身を投じた西洋医学を学んだ医師。<1866年11月12日 - 1925年3月12日> 1894年、ハワイで興中会を結成。1905年、興中会、華興会、光復会が合同して中国同盟会を結成。三民主義を唱えた。1911年、武昌蜂起をきっかけとした辛亥革命を経て臨時中央政府を樹立。1912年(民国元年)1月1日、孫文は南京にて中華民国の成立を宣言し、初代臨時大総統に就任。袁世凱が北京政府を成立させたことから、南京にいた孫文らの革命勢力は中華民国(南京臨時政府)と呼ばれるようになった。1913年(民国2年)から1916年(民国5年)まで日本に亡命。1914年7月8日、中華革命党を結成。1915年10月25日、宋嘉澍の次女の宋慶齢と結婚した。
1900年、生員。1903年、華興会結成メンバー。1905年、中国同盟会を結成。1906年、早稲田大学留学生予科を卒業。中華民国(北京政府)唐紹儀(とう しょうぎ、タン シャオイー)内閣の農林総長(1912年3月 - 7月)。臨時約法を起草し議会制民主主義を標榜した。革命組織中国同盟会を改組して国民党を組織。1913年(民国2年)、国民党が選挙で勝利。3月、袁世凱の意を受けた趙秉鈞が宋教仁を暗殺。宋教仁暗殺がきっかけとなり第二革命が起こったが袁世凱に鎮圧され、国民党は解散させられて孫文らは日本へ亡命した。1914年(民国3年)2月27日、趙秉鈞が不審死。宋教仁暗殺の証拠隠滅を図った袁世凱が毒殺したとの説が広く信じられている。民国4年~5年(1915年~1916年)にかけての護国戦争勃発の引き金ともなった。
李烈鈞(り れつきん、リイ リェジュン)
吉永ちさ
王永江(おう えいこう、ワン ヨンジャン) / 岷源(ミンユァン) / 源伯伯(源おじさん、ユァンボーボ)
エドモンド・バックハウス
柳川文秀 / 梁文秀(リァン ウェンシュウ)
柳川りん / 李玲玲(リイ リンリン)
清の初代皇帝。<1559年2月21日 - 1626年9月30日> ヌルハチが生まれた頃、女真族(ジュルチン、オランカイ(兀良哈))は建州女真5部・海西女真4部・野人女真4部に分かれ、互いに激しく抗争していた。1593年、建州女真を率いて海西女真とのグレの戦いを制す。1603年、赫図阿拉(ヘトゥアラ)に遷都。1616年、女真の諸族を統一、大金(アイシン)国(グルン)を建国した。万暦朝鮮戦争<1592年 - 1598年>を終えた明国が満州に攻め込み、建国まもない満州の存亡を賭けたサルフの戦い<1619年>が起こった。この戦いに勝利し、清朝の基礎を築いたが、1626年(天命十一年)、万里の長城の東端にある要塞、山海関の外郭寧遠城での袁崇煥との寧遠の戦いでポルトガル製の紅夷大砲による砲撃で負傷し死去した。
荘親王 / 愛新覚羅(アイシンギョロ)舒爾哈斉(シュルガチ / シュルハチ)
礼親王 / 愛新覚羅(アイシンギョロ)代善(ダイシャン)
皇太極(ホンタイジ) / 愛新覚羅(アイシンギョロ)黒還勃烈(ヘカンボーリー) / ヘカン
ヌルハチの八男。母は海西女直のイェヘ=ナラ氏の孝慈高皇后葉赫那拉・孟古。1627年(天聡元年)、従兄アミン・ジルガラン・アジゲを朝鮮へ遠征させ(丁卯の役)、自身は寧遠城と錦州城を攻撃したが袁崇煥の猛攻に遭い敗退。1630年、灤河の支流、青龍河(チンロンホー、モンゴル語で「グフ・ゴール」)の渓谷沿いに長城を越えて遷安に侵攻、紫禁城を包囲した。北京防衛に駆けつけた袁崇煥を買収していた宦官の讒言で誅殺させた。寧遠城を落とすことに成功したが瀋陽に戻った。1636年(天聡十年)、チャハル部が降伏し満州蒙古と蒙彊を完全に併合。国号を大清と改め皇帝となった。1637年、ホンタイジの皇帝即位を認めないと表明したため丙子の役を起こし、朝鮮と明の冊封関係を絶ち朝鮮を清の冊封国とした。1641年、洪承疇を捕虜にし、篭絡して寝返らせた。1643年、拠点を山海関の向こうに移すこともなく、明の征伐も果たせぬまま急死した。黑還勃烈が皇太極を名乗った由来には定説が無い。モンゴル族と女真族を統一する際、モンゴル族のハーンを名乗るためにはチンギス統原理に従いボルジギン氏である必要があったことから、統一当時の名前は皇太極ではなかったと考えられている。また、ホンタイジの本名についての研究にあるように「勃烈」は名前の一部ではないという学説があり、本小説ではその説を採用して幼名をヘカンと呼んでいる。
鄭親王 / 愛新覚羅(アイシンギョロ)済爾哈朗(ジルガラン)
ホンタイジの第9子。母はモンゴルのボルジギン氏の孝荘文皇后。6歳で皇帝となり、ドルゴンが摂政となった。1644年3月19日に李自成率いる順軍が北京を陥落させ明を滅ぼすと、5月には清が順を滅ぼし中国全土を支配した。1661年(順治18年)に24歳で天然痘で急死する。
二代目醇親王。宣統帝の父。
清朝最後の皇帝。西太后の指名により、3歳で即位する。
保慶帝 / 愛新覚羅(アイシンギョロ)溥儁(プージュン) / 大阿哥(ダァアーゴ)
愛新覚羅(アイシンギョロ)良弼(リャンビー)
崇禎帝 / 朱由検(ジュ ヨウジァン)
明朝最後の皇帝。1627年、天啓帝が死去して即位すると、専横を極めていた宦官の魏忠賢を死に追いやり、名臣として名高い徐光啓を登用するなど国政改革に取り組む。しかし、1630年、宦官の讒言を容れ、山海関の外郭寧遠城で満州族からの防衛を一手に引き受けていた名将袁崇煥を誅殺した。袁崇煥の後任が洪承疇である。洪承疇は李自成の討伐で大いに苦しめていたが、配置転換で李自成の勢力は息を吹き返した。洪承疇が捕虜となり女真に寝返った後の後任が呉三桂である。1644年、李自成軍に攻め込まれ、紫禁城の北にある景山で首をつって自殺した。明朝滅亡後、鄭芝竜達は唐王朱聿鍵を擁立して南明政権を樹立。鄭成功らの抵抗運動は最終的には台湾へ逃れていった。
呉三桂(ウー サンクイ)
袁崇煥の死後、遼東に洪承疇と共に就任したが、呉三桂が敗走し夏承徳が裏切ったため洪承疇は捕虜となり篭絡されて女真に寝返ったため、その後任として李自成が明軍を指揮して山海関で清軍の防備に当たった。1644年、李自成が北平城を陥落させ呉三桂の妾・陳円円を捕らえたことを知るや、山海関を開いて清軍に降りた。ドルゴン軍の先鋒として李自成軍を破り陳円円を取り戻した。陳円円を正妃にしようとしたが、円円は固辞。1673年、呉三桂が三藩の乱を起こすと、陳円円は呉三桂の下を辞去して女道士となり、寂静と改名して余生を過ごした。呉三桂には異民族に中国を売り渡したという評判がついてまわり、悪評の多くは後世の人々が作り上げた話ともいわれている。近松門左衛門の「国性爺合戦(1715年)」の作中、呉三桂は鄭成功や甘輝と共に忠臣として描かれている。
余談
- 「蒼穹の昴」を執筆していた頃から構想はあったが、当時は張作霖の息子である(作中にも登場する)張学良が存命していたので『親父のことを好き勝手に書かれるのは気分を害するだろう』と遠慮して、張学良の死後に執筆・刊行したことを小説すばる(集英社刊)誌上での北方謙三との対談で明かしている。
- 朝日新聞(2007年12月23日朝刊)のインタビューで続編の構想を考えており、2年後には始めたいと語っている。
関連する歴史上の事件
- 辛亥革命(1911年 - 1912年)
- 第二革命(1913年)
- 第一次世界大戦(1914年 - 1918年)
- 中華帝国 (1915年-1916年)
- 護国戦争(1915年 - 1916年)
- 張勲復辟(1917年)
- 護法運動(1917年 - 1922年)
- ヴェルサイユ条約(1919年)
- 五四運動(1919年)
- 安直戦争(1920年)
- グリゴリー・ヴォイチンスキーの中国共産党結党準備(1920年)
- 奉直戦争(第一次1922年、第二次1924年)
- アドリフ・ヨッフェの中国国民党を支援する協定に署名(1923年)
- ミハイル・ボロディン中国国民党政治顧問(1923年 - 1927年)
- 第一次国共合作(1924年 - 1927年)
- 中山艦事件(1926年)
- 北伐(1926年 - 1928年)
- 南京事件 (1927年)
- 上海クーデター(1927年)
- アルコス事件(1927年)
- 八七会議(1927年)
- 秋収起義(1927年)
- 南昌起義(1927年)
- 広州張黄事変(1927年)
- 張作霖爆殺事件(1928年)
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