彼岸過迄
以下はWikipediaより引用
要約
『彼岸過迄』(ひがんすぎまで)は、夏目漱石の長編小説。1912年1月1日から4月29日まで「朝日新聞」に連載され、同年に春陽堂から刊行された。
「修善寺の大患」後初めて書かれた作品。自意識の強い男と、天真なその従妹との恋愛を描く。短編を集めて一つの長編を構成するという手法が具現化されている。『行人』『こゝろ』と続く、後期3部作の第1作である。
連載が始まる前年、漱石は文部省からの文学博士号の授与を辞退している。辞退した理由は、学位の授与を審議する博士会が授与を見送ったにもかかわらず、漱石が大病を患ってから一転授与に変じたことにあるとされている。
作品背景
漱石は1910年の夏に病を悪化させ、危篤状態になった(修善寺の大患)。この1年半ののちに「彼岸過迄」の連載が始まったのだが、漱石は連載開始に当たり、初日(1月1日)に、「彼岸過迄に就て」という題の序文を発表している。これによれば、長く休んだために面白いものを書かなくてはいけないと感じているとしている。また、「彼岸過迄」という題名は、元日から始めて彼岸過ぎまで書くつもりだったので名づけたことがわかる。
漱石は修善寺の大患のほかにも、発表前年の11月に、生後2年の五女ひな子が死亡している。また、江藤淳は漱石がこの時期に文壇で孤立化していたと指摘している。「彼岸過迄」は、序文にある通り、数本の短編が集まって1つの長編を構成する、という手法が採られている。柄谷行人は、これは「吾輩は猫である」と同じ構成だとして、この作品は漱石が原点回帰を図った探偵小説であると評論している。ただし、漱石はその序文で、数本の短編が集まって1つの長編を構成する作品はこれまで試みたことがないとしている。
連載が始まった日と同じ1912年1月1日には孫文が中華民国の成立を宣言し、その翌月に愛新覚羅溥儀が清朝皇帝を退位して清が滅亡している。中国情勢だけではなく世界情勢はいよいよ混迷を深め、日本が暗澹の渦中に身を置き始めた時代でもあった。作品にはそうした時代的背景が盛り込まれているが、序文に「今の世にむやみに新しがっているものは三越呉服店とヤンキーとそれから文壇における一部の作家と評家だろうと自分はとうから考えている。自分は凡て文壇に濫用される空疎な流行語を藉りて自分の作物の商標としたくない」とあり、100年を過ぎてなお色褪せない作品と言える。
あらすじ
いくつかの短編小説を連ねることで一編の長編を構成するという試みがなされている。いくつかの章は話者がかわる。鈴木三重吉の選んだ「現代名作集第一編」には『須永の話』が独立した短編として収録され、『雨の降る日』は独立して文集『色鳥』に収録された。長編として厳密な統一性をもとめず、各章を個々の短編をかくようにして視点と文体の変化をさせている。各章の概要は以下である。
「風呂の後」
「停留所」
「報告」
「雨の降る日」
「須永の話」
「松本の話」