母の死と新しい母
以下はWikipediaより引用
要約
『母の死と新しい母』(ははのしとあたらしいはは)は、志賀直哉の短編小説。
1912年(明治45年)2月1日発行の『朱欒』(ざんぼあ)第二巻第二号に発表され、1913年(大正2年)1月1日洛陽堂刊行の『留女』(るめ)に収録された。『留女』は志賀の初作品集である。
作中の出来事は実際に志賀が体験したことであり、多くの登場人物に実在するモデルがいることから、この作品は自伝的小説である。また、作中の年齢表記は数え年である。
あらすじ
13歳の夏、「私」が片瀬に水泳に行っていると祖父から母の懐妊の知らせが来た。「私」は母に頭の物を土産にして家に帰った。母は悪阻で寝ていたが、「私」の土産を1つ1つ手にとって眺めた。母の寝る部屋の隣は日清戦争帰りの予備兵が泊まっており、騒がしかった。翌朝、母は「私」が帰宅していることを覚えておらず、その後からだんだん様子がおかしくなってしまった。頭を冷やす便宜から髪はザンギリにされてしまう。そして明治28年8月30日の汐の干く頃、33歳で亡くなった。2か月後、「私」の自家では新しい母を迎えることになった。母を亡くして毎日泣き、祖母と風呂でよく悲しんだ「私」は、100日も経たないうちに新しい母を待ち焦がれるようになった。赤坂の八百勘で式と披露宴があった。翌朝、新しい母の母から預かっていた絹のハンカチを新しい母に渡すことで、初めて新しい母と2人で話した。そのうち親類廻りが始まり、往来で新しい母が男に注目されると「私」は淡い一種の恐怖と得意を感じた。それから約2年置きに6人の異母きょうだいが生まれた。若くて美しかった新しい母も、お産で腹が痛むことで「年をとってだんだん身体が弱ってきたのでしょうよ」と言うようになった。
登場人物とそのモデル人物
参考文献は志賀直哉『志賀直哉全集 第二十二巻』(2001年(平成13年)3月 岩波書店)、照魔真人『相馬家騒動実録〔正編〕』(1892年(明治25年)8月 文昌堂)である。
母(実母) - 志賀銀
草稿
本作には前半部分が失われた草稿が残されている。また、草稿時点では「二人の母」という題名だったが、推敲によって「母の死と新しい母」に改題された。志賀直哉の1912年(明治45年)1月8日の日記では、この改題について書かれている。
草稿の時点では、祖父の拘引、祖母と話したくなかったこと、新しい母の年齢、新しい母への愛が書かれていたが、これらは推敲によって削除された。また、父との関係、母(実母)の死が過去へ行ったような気がした、という部分と腹違いの兄妹(弟)の誕生が年表的に列挙される場面以降全てとが推敲によって加筆された。他にも細かく多くの修正がなされているが、文言の調整に留まっている。
参考文献
- 志賀直哉『志賀直哉全集 第二巻』1999年(平成11年)1月 岩波書店
- 志賀直哉『志賀直哉全集 第六巻』1999年(平成11年)5月 岩波書店
- 志賀直哉『志賀直哉全集 第九巻』1999年(平成11年)8月 岩波書店
- 志賀直哉『志賀直哉全集 第十一巻』1999年(平成11年)11月 岩波書店
- 志賀直哉『志賀直哉全集 第十二巻』1999年(平成11年)12月 岩波書店
- 志賀直哉『志賀直哉全集 第二十二巻』2001年(平成13年)3月 岩波書店
- 志賀直哉『志賀直哉全集 補巻四』2002年(平成14年)1月 岩波書店
- 桜井勝美『志賀直哉の原像』1976年(昭和51年)12月 宝文館出版
- 照魔真人『相馬家騒動実録〔正編〕』1892年(明治25年)8月 文昌堂
- 桜田満『〈人と文学シリーズ〉現代日本文学アルバム志賀直哉』1980年(昭和55年)7月 学習研究社