石の花 (坂口尚の漫画)
以下はWikipediaより引用
要約
『石の花』(いしのはな)は、坂口尚による日本の漫画。第二次世界大戦時、ナチス・ドイツの侵攻を受けたユーゴスラビアを舞台にした「戦争大河」作品で、極限状況にありながら理想を求める若者の生き方を描く。坂口の代表作である。
沿革
『石の花』は、『コミックトム』で1983年3月号から1986年8月号まで連載し、版元の潮出版社から単行本全6巻(希望コミックス)が刊行された。
当時の担当編集者は、坂口に「抵抗する側からの戦争漫画」のテーマを提案したところ、パルチザン闘争を提示され、「巨大なものに立ち向かう側からの戦争の意味と、人間の尊厳を描き出そうと、ナチスドイツに対する抵抗運動を素材にすることになりました」と述べている。編集担当者は、日本人にはなじみが薄い「第二次世界大戦下のユーゴスラビア」が舞台であるため、当初は不安を感じていたという。
その後、全体に大幅な加筆を加え、新潮社で『新版・石の花』(全5巻、1988年)として刊行された。この新版は、著者没後に講談社で、文庫版(全5巻、1996年)や愛蔵版(全4巻、2003年)でも刊行された。
1990年代にはフランスでも出版され、2022年にもフランス語の新装版が刊行された。
2022年1月から2月にかけては、新潮社版を底本として再編集された新版がKADOKAWAから刊行された。この新版はそれまでに発行された単行本の中で最も大きいサイズである他、最終第5巻には本作の原点とも言える坂口作画によるユーゴスラビア製映画『抵抗の詩』のコミカライズ作品「抵抗の詩 第一部」「抵抗の詩 第二部」(『まんが王』1970年8月号、9月号掲載)が単行本初収録されている。
2023年、本作品に対してフランス・アングレーム国際漫画祭の「遺産賞」が贈られた。
さいたま市のNPO法人マンガ作品保存会MOMは、「坂口尚オフィシャルサイト午后の風」を運営している「一般社団法人作品保存会午后の風」と連携し、保管されている「石の花」を含め1万枚近い原画の修復、デジタル化を進めている。
あらすじ
このあらすじは潮出版社版をもとに作成している。物語は1941年から1945年5月までのユーゴスラビアをクリロとフィーの体験を通して描いている。
侵攻前夜
首都ベオグラードで三国同盟に加入した政府を軍の将校たちが倒すクーデターが発生する。クリロの兄イヴァンたちは酒場で気勢を上げるが、クリロの父はイヴァン対して「この国はわしら多くの貧しい農民が大昔から天候と闘いつづけ耕し育ててきたんだ。一握りの政治家でも革命家連中でもない」と話す。
枢軸国軍の侵攻
村に戻る途中で生徒たちは突如来襲したドイツ軍機に銃撃され、クリロだけが逃げ延びる。出発が遅れたフンベルバルディング先生とフィーは難を逃れる。ダーナス村はすでにドイツ軍に制圧されており、クリロは山中に逃げ込む。フィーはドイツ軍に捕らえられ、他の村人と一緒に強制収容所に送られる。
強制収容所
クリロとイヴァン
再会
マイスナーの屋敷でクリロはイヴァンと再会し、マイスナーとイヴァンが7歳までドイツで一緒に学んだ仲であること、イヴァンにはドイツ人の血が流れていることを知らされる。イヴァンはクリロとは兄弟ではなく従兄弟であること、ドイツのために誇りをもって働いていることを打ち明け、クリロは怒りをぶちまける。
イヴァンはクリロの助命を嘆願するが聞き入られず、自らクリロを撃ち、川に転落する。マイスナーはそれが芝居であることを見抜きながらも、コスモポリタンを夢見るイヴァンを放置する。マイスナーはイヴァンが人を信じすぎるが、自分は信じないだけだと説明する。
二つの幻
クリロは出会ったユダヤ教徒のイザークが、戒律により人を殺すことができないのを知る。それは、やられたらやり返すというクリロの持っていた力の論理とは異質なものであった。ミルカはクリロからイヴァンがドイツのスパイであることを知り、ショックを受け、ゲリラ部隊から離脱する。
ユーゴ政府資金とモルトヴィッチ
エルケは、情報局主任からドイツ侵攻前にユーゴ政府が保管していた巨額の資金(金塊)が行方不明となっており、それにモルトヴィッチという男が関与していると聞かされる。エルケはこの資金が反乱ゲリラやパルチザンに流れることを阻止する任務を命じられ、イヴァンと連絡をとる。
最初の殺人
放浪の末、ゲリラ部隊はパルチザンに合流する。キャンプ中の部隊はスパイの手引きでドイツ軍の攻撃を受け、半数以上が殺傷される。その中でもイザークはユダヤ人ということで差別される。クリロはドイツ軍に知らせようとしたスパイを射殺、ついに人を殺してしまった事にひどく落ち込む。
内戦
ザグレブではロマの人々が住民たちからつるし上げられていた。止めようとするクリロに対して、ブランコは権力の尻馬に乗って弱い者いじめをする奴らだ、どこにでもいるもんだと諭すが、クリロは突っ込み乱闘となる。
イギリスの支援を受けたチェトニクは、パルチザンの本拠地を襲撃し、内戦が始まる。ドイツ軍は東部戦線から1個師団を追加投入し、ゲリラに対して攻勢に出る。クリロの所属するパルチザンはソ連からの指令によりチェトニクへの反撃を停止し、より山深い地域に移動する。
マイスナーとイヴァンの議論
エルケはモルトヴィッチの動向をつかみ、イヴァンは失業者に扮装して接触を試みる。イヴァンはドイツ軍情報局が前政権の金庫番であるモルトヴィッチを追う理由を推理し、前政権の資金の行方について知っていると結論づける。
マイスナーに接近するモルトヴィッチ
ギュームはマイスナーがナチス青年党機関誌に寄稿した、真紅のバラの高貴さについての論文を引き合いに出し、深い印象を与える。ギュームの目的は、マイスナーの屋敷の地下に収蔵されている多数の略奪された絵画・美術品であった。フィーは襲撃時のショックからか目が見えるようになる。
モルトヴィッチの情報
フィーは目が見えるようになったことをマイスナーに話し、彼は素直に喜んだ。フィーはゲットーや収容所での横流しについてマイスナーから聞き、叔父のやっていることの意味を知る。
パルチザン本隊との合流
リジェは共産社会の理想を子供たちに説くが、大人は枢軸国との戦いのため銃を取ったのであり、本来、人は神を信じ、正直に暮らすべきだと反論する。宗教のもたらす平等、共産主義思想のもたらす平等の議論は平行線となる。
ヤブヲニツァ橋の渡河作成
イギリスでイヴァンは外務省官僚と会い、パルチザンへの支援の停滞理由を確認し、大陸に戻る。列車の中でフィーの叔父モーリエと出会う。闇商売で荒稼ぎしていることを自慢する彼を、イヴァンは恥知らずと面罵する。イヴァンはモルトヴィッチがモーリエにも接近していることを知り、その謎に迫ろうとする。
再び強制収容所へ
収容所の外における生まれ、地位、財産、容姿は収容所内では意味をもたず、監視と絶望が支配する「平等な世界」がそこにある。フィーは顔にあざをもつラーナと出会い、彼女が収容所に来てはじめて他の人と対等になれたという話を聞く。ラーナは「人を蹴落とし、押し合いへしあい、あのシャバが平和だったといえる?あんな平和ならあたしは二度と望むもんか!」と吐き捨てる。
ギュームの謎の行動
ドイツ軍のパルチザンに対する攻勢が始まる。クリロもまた極限状態で人間性を保つことがいかに難しいかを知る。ドイツ軍の攻撃で多くの避難民も犠牲となり、荒れ地には一面に十字架が並ぶ。ブランコはクリロとイザークに「人間の最悪だけを見るな。人間の美しさばかりを見るな」と諭す。
スプリット港
マイスナーはイヴァンと対面する。二人の議論は「力による調和」の是非となるが、マイスナーは「きみは力づくといって非難するが、きみには分かっているはずだ。民衆がそれをきらっていないことを。自ら問い、自ら悩み、自ら選ぶ自由よりある権威にしたがってしまった方が楽なのだ」という人間の側面を語る。
イヴァンは故郷の父母に手紙を書き、その中で戦争の原因は自分の中にもあったことを悔やむ。ドイツ軍情報局はイヴァンを処刑して英雄にすることを望まず、イヴァンは釈放されるが、ミルカの目の前で裏切り者として共産党員にあっけなく殺害される。
ユーゴの解放
1945年5月。ドイツが降伏し、ユーゴ全土は開放され、クリロは家に戻る。ミルカからの手紙でイヴァンの死と、イヴァンがドイツのスパイではなかったことが分かる。クリロはイヴァンを疑った自分が情けないと泣き伏す。
町でクリロはチェトニクの同調者がリンチに遭っているのを見かけ、制止しようとするが無駄であった。クリロは「敵はドイツ兵だけではない」というブランコの言葉を思い出す。クリロは自分なりに戦争と平和を論じ、総司令部からの勲章の授与を拒否する。
クリロはポストイナ鍾乳洞を訪れる。巨大石柱のある空間でクリロは「人間には目に見えない翼がある」というフンベルバルディンク先生の言葉を思い出す。クリロはそこでフィーと再会し抱き合う。二人は思い出のプラムの木の下で、「F」のイニシャルのある帽子とプラムの種を見つける。
登場人物
モルトヴィッチ
ユーゴスラビア王党派とされていたが、実際にはその時々の状況に応じ主義思想を目まぐるしく変えていく、バルカン政治家気質の権化とも言える怪人物。王室が国内のいずこかに隠したと言われる財宝の行方を知るとされ、ドイツ軍・ゲリラ双方が接触を試みる。初老の見た目に反して筋骨隆々の体型をしている。骨董商W・ギュームなる人物が正体であるかのような進行を見せるが、どちらがどちらを演じているのか明瞭ではなく、当の本人も取引相手を幻惑するのに有効活用したりと最後まで謎のままである。
このほか、端役ながらチトーやハインリヒ・ヒムラーなどの実在人物が登場する。
書誌情報
- 坂口尚『石の花』潮出版社〈希望コミックス〉、全6巻。ISBNはない。
- 1984年10月15日発行
- 1985年3月1日発行
- 1985年11月15日発行
- 1986年4月30日発行
- 1986年8月1日発行
- 1986年10月23日発行
- 坂口尚『石の花』新潮社〈新潮コミック〉、新版、全5巻
- 「侵攻編」1988年8月発行、ISBN 4-10-603002-0
- 「抵抗編」1988年8月発行、ISBN 4-10-603003-9
- 「内乱編」1988年10月発行、ISBN 4-10-603005-5
- 「激戦編」1988年10月発行、ISBN 4-10-603006-3
- 「解放編」1988年12月発行、ISBN 4-10-603007-1
- 坂口尚『石の花』講談社〈講談社漫画文庫〉、新版、全5巻
- 「侵攻編」1996年7月発行、ISBN 4-06-260244-X
- 「抵抗編」1996年7月発行、ISBN 4-06-260245-8
- 「内乱編」1996年7月発行、ISBN 4-06-260246-6
- 「激戦編」1996年8月発行、ISBN 4-06-260258-X
- 「解放編」1996年8月発行、ISBN 4-06-260259-8
- 坂口尚『石の花』講談社〈講談社コミックスDX〉、新版、全4巻
- 2002年11月発行、ISBN 4-06-334633-1
- 2002年11月発行、ISBN 4-06-334634-X
- 2002年12月発行、ISBN 4-06-334646-3
- 2003年1月発行、ISBN 4-06-334657-9
- 坂口尚『石の花』光文社〈光文社コミック叢書SIGNAL〉、新版、全3巻
- 2008年2月発行、ISBN 978-4-334-90148-6
- 2008年3月発行、ISBN 978-4-334-90149-3
- 2008年4月発行、ISBN 978-4-334-90150-9
- 坂口尚『石の花』KADOKAWA〈青騎士コミックス〉、新版、全5巻
- 2022年1月20日発売、ISBN 978-4-04-736871-2
- 2022年1月20日発売、ISBN 978-4-04-736872-9
- 2022年1月20日発売、ISBN 978-4-04-736873-6
- 2022年2月19日発売、ISBN 978-4-04-736874-3
- 2022年2月19日発売、ISBN 978-4-04-736875-0 - 読み切り「抵抗の詩 第一部」「抵抗の詩 第二部」収録。
評価
漫画家の浦沢直樹は本作品について「物語りは骨太で、一つの主義主張に偏らず多角的に表現している。「人類は何をやっているんだ」という神の目線と、庶民の「上は何をやっているんだ」という目線を併せ持ち、表現として一級品。ずっと読まれるべき作品です」と評価している。
作家の米原万里は、本書を「圧倒的に面白く」「島国のわれわれには何度聞いてもわかりづらい入り組んだ多民族国家の歴史が、手に汗握る波瀾万丈の物語と激動期に生きる人間たちの姿を通して、心と頭にしっかりと刻み込まれる」と評価している。米原は感動のあまり、本書を20セット程購入し友人たちに配ったところ、それを読んだ人たちがまたあちこちに配るという連鎖反応が起きたという。その一環で本を送られた、当時外務大臣だった某政治家は、当時発生したユーゴスラビア紛争について天皇にユーゴスラビアの情勢を解説する際に非常に助かった、という。さらに、米原が聞いた話では、外務大臣のユーゴ情勢に関する知識源が『石の花』であることを知った天皇もまた、本書を取り寄せて購読した、という。
一般社団法人マンガナイト主催の「これも学習マンガだ!世界発見プロジェクト」の戦争分野で2016年に選定されている。この記事の中で作家・本山勝寛は「戦争とは何か、平和とは何か、人間とは何か、自由とは何か、本質的で普遍的な問いをこれでもかというくらい投げかけてくる。戦争マンガ、歴史マンガであると同時に、一級の哲学的文学作品だ」と評価している。
ユーゴスラビア史研究者の山崎信一は、「二元論に陥らず、複雑な社会で多様な人間がいたことを示している」と評する。山崎は高校生の時にこの漫画に出会い、ユーゴスラビア史の研究者になったと言う。
本作品はフランスでも出版され、当地の業界人にも評判が高いという。フランス語の新装版に関わった翻訳者は、2023年のアングレーム国際漫画祭での受賞は、以前からのそれらの評価に加えて、ロシアのウクライナ侵攻によりヨーロッパでは戦争が身近な話題に感じられるようになったことも影響したと見ている。浦沢直樹は受賞について「なぜ日本はこういう作品にきちんと評価を与えないんだろうと思ってしまう」とコメントしている。
坂口自身は、自作品について多くを語らなかったが、新潮社のPR雑誌「波」1988年10月号に掲載された「なぜ漫画でユーゴを描いたのか」において、「五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国」と称されることもあるユーゴスラビアを「この世界の縮小版と言える」と語っている。坂口は、ユーゴスラビア訪問時に作家の集会に呼ばれ、スピーチをした。残されているその時のスピーチ原稿によれば、坂口は戦争について「自然破壊を、確実にかつ強烈に、行うものであり、そしてそれは人間によって引き起こされる悪であります」「どこの国でも人間が何人か集まれば意見も異なり、けんかが始まる可能性がある」「私は、宇宙船『小さな地球』号の乗組員について、考えをめぐらしたいと思います。乗組員、すなわち我々人間は、この『小さな地球』上にあって、その存在の持続のために、精一杯の努力をすべきです」と語っている。