小説

蟹工船




以下はWikipediaより引用

要約
現実の蟹工船

蟹工船は日本で発明され実用化された船で1916年(大正5年)に和嶋貞二が商業化した。八木亀三郎率いる八木商店は蟹工船で大きな利益を上げ愛媛県で一番の高額納税者になった。

夏場の漁期になると貨物船を改造した蟹工船と漁を行う川崎船が北方海域へ出て三ヶ月から半年程度の期間活動していた。蟹工船は漁をしていない期間は通常の貨物船として運行しており、専用の船があったわけではない。蟹の缶詰は欧米への輸出商品として価値が高かったため、大正時代から昭和40年代まで多くの蟹工船が運航されていた。

1926年(大正15年)9月8日付け『函館新聞』の記事には「漁夫に給料を支払う際、最高二円八〇銭、最低一六銭という、ほとんど常軌を逸した支払いをし、抗議するものには大声で威嚇した」との記述がある。逆に、十分な賃金を受け取ったという証言もある。『脱獄王 白鳥由栄の証言』(斎藤充功)において、白鳥由栄(1907年生まれ)は収監以前に働いていた蟹工船について「きつい仕事だったが、給金は三月(みつき)の一航海で、ゴールデンバット一箱が七銭の時代に三五〇円からもらって、そりゃぁ、お大尽様だった」と述べている。1926年に15歳で蟹工船に雑夫として乗った高谷幸一の回想録では陸で働く10倍にもなると述べているが、単調な1日20時間労働で眠くなるとビンタが飛ぶ過酷な環境で大半は1年で辞めるところ、高谷幸一は金のために5年も働いたと証言している。漁夫雑夫でも米1日八合が支給され、食事量は陸上よりも多く、幹部は乾燥鶏卵やハムなどが食べられ、当時としては食事はよかった。高い給料を貰える代わりに睡眠時間は短く、狭い漁船の中で何か月も過ごさなくてはならず(監禁に近い)、ストレスや過労により精神がおかしくなり、陸では温厚な人物ですら、鬼に変えてしまうほど精神的に追い詰められていた。

小説発表後も1930年(昭和5年)にエトロフ丸で、虐待によって死者を出した事件も起きている。1930年9月19日の出漁中、漁夫に20時間労働を強制し、死者十数人を出した蟹工船エトロフ丸が函館に入港し、首謀者が検挙された。富山県警察部の取り調べでは、虐殺の事実はないものの漁夫、雑夫に暴行を加えた事実はあったこと。死亡者は16人、罹病者は約130人(主に胃腸病、脚気)であったことが発表されている。なお死亡診断書を書いていた船医は無資格者であることが判明し、後に医師法違反で起訴、略式命令で罰金200円に処された。

1929年(昭和4年)頃から蟹缶詰の生産量が余剰になり始めた。1929年には4隻だったソビエト連邦の蟹工船が1930年(昭和5年)には10隻に増え、日本も生産量が増え続けた結果、同年には大量の売れ残りが発生して市場価格が下がった悪影響で経営環境が悪化した。1931年(昭和6年)には業界全体で減産を決めたが守られず過剰生産による価格暴落により赤字を出すことになり、1932年(昭和7年)1月29日に日本で蟹工船を運用していた日本工船、昭和工船、東工船、林兼の四社が合併して日本合同工船株式会社が設立され蟹工船は単一企業が運用するようになった。日本合同工船株式会社は1936年(昭和11年)に共同漁業(現在のニッスイ)に吸収合併された。その後、戦争により1938年(昭和13年)を最後に1953年(昭和28年)まで中断期間に入った。

蟹工船形式の操業は1953年から再開している、1970年代、200カイリ経済水域の設定による北洋漁業廃止まで行われていた。

漁業の許可に関しては1923年の大正12年3月13日農商務省令第5号工船蟹漁業取締規則による規制を受ける許可制であった。1934年(昭和9年)からは農林省令第19号母船式漁業取締規則の適用を受け、戦後は蟹工船が再開される直前に出された昭和27年農林省令第30号母船式漁業取締規則の適用を受けた。これらの法規は漁業許可に関する物で労働環境については何も定めていない。

戦後に労働基準法ができた後も蟹工船の労働者は労働基準法第41条第1号の労働時間・休憩・休日規定の適用が除外される労働者として扱われ、労働基準法の適用を受けられるようになるには1968年の昭和43年運輸省令第四十九号「指定漁船に乗り組む海員の労働時間及び休日に関する省令」まで待たなければならなず、蟹工船の労働者は終焉直前まで工場法の適用を受ける工員でもなければ船員法の適用を受ける船員でもなく労働基準法の適用を受けない漁師として扱われていた。

ソビエト連邦の蟹工船

ソビエト連邦(ソ連)における蟹工船は日本からの技術移転によって始まった漁業コルホーズの一つだった。

蟹の缶詰だけを生産しているわけではないが、日本の蟹工船の技術移転によって始まった経緯からソ連では洋上工場全般を蟹工船(краболов)と呼んでいた。

1928年2月にドゥドニク、アレクサンドル・イグナチエビッチが大阪に来て日本の船「大洋丸」を35万ルーブルで買い取り第一蟹工船«Первый краболов»と命名されソ連で初めての蟹工船になった。第二次大戦後にアレクサンドロフ・アキモビッチ・イシュコフ水産大臣が主導して大型カニ缶工場(Большая крабо-рыбоконсервная плавбаза)という船の建造計画を立ち上げ、1971年12月30日に世界最大の蟹工船であるボストーク(Р-743Д Восток)が完成した。ボストークは排水量:32,096トン、全長:179.2m、乗組員:600人、14隻の小型漁船と2機のヘリコプターを運用でき、カニ缶詰を1日25万缶生産できる能力を持っていた。この船はウラジオストクを母港として日本の蟹工船の漁場と隣接するソ連の領海で操業していた。その後1988年から1989年にかけてフィンランドの造船所で大型蟹工船「ソドルジェストヴォ」「ピョートル・ジトニコフ」「フセヴォロド・シビルツェフ」が建造されウラジオストクを母港として極東地域で操業されている。

これらの蟹工船はソ連崩壊後はペレストロイカによる民営化で誕生したウラジオストクにある水産会社ダリモレプロドクトが保有していたが、ソドルジェストヴォは2013年12月3日に売却され、中国で解体された。

ソ連では蟹工船と同様のニシン、タラ、キャビアなどの缶詰を製造する工船も建造して運用している。食料品以外にも海産物からリンと窒素が豊富な魚粉肥料を調達する役目も担っていた。

ソ連では、農業生産と牧畜生産に失敗して食糧難になっていた時代でも、水産資源の生産には比較的余裕があったため魚を食べることが推奨された。そのため内陸部まで運べる魚の缶詰の生産が奨励され、輸出商品としても価値の高い蟹缶詰を生産する蟹工船への期待は非常に大きかった。蟹工船の成功は、イシュコフ水産大臣が長期間にわたって権力を維持する原動力になっていた。このため、蟹工船の労働者の中にはソビエト連邦共産党から表彰された人物も多く、イグナチエビッチのようにレーニン勲章を授与された船長もいる。ソ連で優れたプロレタリアートとして共産党から表彰された者は、日本の文学の中で悪として描かれた、労働者を虐待して過酷な労働を強いてノルマを達成させた監督側の人々だった。

バルト海でニシン、タラ工船として活動した船は、東ドイツのロストックにあるネプチューン造船所で建造され、1945 - 1955年の戦後復興期にソ連からの投資により東ドイツの造船業を6倍以上の規模に急成長させている。

蟹工船(小説)

『蟹工船』(かにこうせん)は、文芸誌『戦旗』で1929年(昭和4年)に発表された小林多喜二の小説である。いわゆるプロレタリア文学の代表作とされ、国際的評価も高く、いくつかの言語に翻訳されて出版されている。

1929年3月30日に完成し、『戦旗』5月号・6月号に発表。「昭和4(1929)年上半期の最高傑作」と評された。『蟹工船』の初出となった『戦旗』では検閲に配慮し、全体に伏字があった。6月号の編が新聞紙法に抵触したかどで発売頒布禁止処分。1930年7月、小林は『蟹工船』で不敬罪の追起訴となる。作中、献上品のカニ缶詰めに対する「石ころでも入れておけ! かまうもんか!」という記述が対象であった。戦後1968年、ほぼ完全な内容を収めた『定本 小林多喜二全集』(新日本出版社)が刊行された。

この小説には特定の主人公がおらず、蟹工船にて酷使される貧しい労働者達が群像として描かれている点が特徴的である。蟹工船「博光丸」のモデルになった船は実際に北洋工船蟹漁に従事していた博愛丸(元病院船)である。

あらすじ

「おい地獄さ行(え)ぐんだで!」

蟹工船とは、戦前にオホーツク海のカムチャツカ半島沖海域で行われた北洋漁業で使用される、漁獲物の加工設備を備えた大型船である。搭載した小型船でたらば蟹を漁獲し、ただちに母船で蟹を缶詰に加工する。その母船の一隻である「博光丸」が本作の舞台である。

蟹工船は「工船」であって「航船」ではない。だから航海法 は適用されず、危険な老朽船を改造して投入された。また工場でもないので、労働法規も適用されなかった。

そのため蟹工船は法規の空白域であり、海上の閉鎖空間である船内では、東北一円の貧困層から募集した出稼ぎ労働者に対する資本側の非人道的酷使がまかり通っていた。また北洋漁業振興の国策から、政府も資本側と結託して事態を黙認する姿勢であった。

情け知らずの監督である浅川は労働者たちを人間扱いせず、彼らは劣悪で過酷な労働環境の中、暴力・虐待・過労や病気で次々と倒れてゆく。ある時転覆した蟹工船をロシア人が救出したことがきっかけで、労働者達は異国の人も同じ人間と感じるようになり、中国人の通訳も通じ、「プロレタリアートこそ最も尊い存在」と知らされるが、船長がそれを「赤化」とみなす。学生の一人は現場の環境に比べれば、ドストエフスキーの「死の家の記録」の流刑場はましなほうという。当初は無自覚だった労働者たちはやがて権利意識に覚醒し、指導者のもとストライキ闘争に踏み切る。会社側は海軍に無線で鎮圧を要請し、接舷してきた駆逐艦から乗り込んできた水兵にスト指導者たちは逮捕され、最初のストライキは失敗に終わった。労働者たちは作戦を練り直し、再度のストライキに踏み切る。

再脚光

再脚光のきっかけは作者の没後75年にあたる2008年(平成20年)、毎日新聞東京本社版1月9日付の朝刊文化面に掲載された高橋源一郎と雨宮処凛との対談といわれる。同年、新潮文庫『蟹工船・党生活者』が古典としては異例の40万部が上半期で増刷され例年の100倍の勢いで売れた。5月2日付の読売新聞夕刊一面に掲載。読者層は幅広いが、特に若年層に人気がある。毎日新聞等では、日本共産党党員が近年増加しているのは蟹工船等の影響もあるのではないかと論じられた。2008年の新語・流行語大賞で流行語トップ10に「蟹工船(ブーム)」が選ばれた。 2006年(平成18年)以降、イタリア語版、韓国語新訳版、台湾からの中国語新訳版、大陸での中国語旧訳再版、「マンガ蟹工船」と合本の中国語新訳版、フランス語版、スペイン語版などが各地で出版されている。

舞台版
  • 1929年 - 新築地劇団が上演(タイトルは「北緯五十度以北」だった)。
  • 1968年 - 東京芸術座が初演。全国巡演へ。演出は村山知義。脚本は大垣肇。美術は松下朗。
  • 1983年 - 東京芸術座が再演。
  • 1987年 - 劇団はぐるま座が上演。
  • 2009年 - 劇団俳優座が上演。脚本・演出は安川修一。
  • 2010年 - 東京芸術座が上演。脚本は大垣肇。演出は“村山知義による”印南貞人・川池丈司
漫画版
  • 東銀座出版社版 - 2006年(平成18年)刊行。帯に井上ひさしの推薦文があった。講談社+α文庫から2008年(平成20年)に再刊。両者とも解説は島村輝。
  • 2007年(平成19年)9月27日、白樺文学館多喜二ライブラリーにて無料公開された。
  • イースト・プレス刊「まんがで読破」シリーズのひとつとして、2007年(平成19年)10月に発売。特に主人公のいない群像劇である原作に対し、森本という労働者が主役に据えられている。
  • 新潮社『週刊コミックバンチ』2008年38号(8月発売)より2008年10月まで、原恵一郎・作画による連載があった。
  • 『劇画 蟹工船 覇王の船』(作画:イエス小池) - 宝島社文庫より2008年10月に発売。
  • 『僕らの蟹工船 小林多喜二『蟹工船』より』KADOKAWA『月刊コミックビーム』にて唐沢なをき・作画による連載があった。『蟹工船』をモチーフとしたギャグ漫画であり、原作とは大筋が似ているだけである。
  • 『新約カニコウセン』白泉社『ヤングアニマル』2021年12号より原田重光・原作、真じろう・作画による連載があった。
  • 集英社『少年ジャンプ+』にて漫☆画太郎が連載していた『漫古☆知新-バカでもわかる古典文学-』第1話で、『蟹工船』が原作となった内容が描かれている。
映画
1953年

山村聡主演・初監督の作品。1953年(昭和28年)9月10日に公開。芸術祭参加作品。

製作
  • 製作:現代ぷろだくしょん
  • 監督・脚本:山村聡
  • 製作:山田典吾
  • 音楽監督:伊福部昭
  • 演奏:東京交響楽団
  • 撮影監督:宮島義勇
  • 撮影:仲沢半次郎
  • 記録撮影:牛山邦一
  • 特殊撮影:佐藤昌道
  • 照明:吉田章、織間五郎
  • 録音:空閑昌敏
  • 美術監督:小島基司
  • 美術:渡辺竹三郎
  • 編集:今泉善珠
  • 監督補佐:青山通春
  • 特殊技術:奥野文四郎
  • 協力:勝山町漁業協同組合
出演者
  • のんだくれの松木:山村聡
  • 娼婦:日高澄子
  • 新船医・谷口:森雅之(大映)
  • 箕面:河野秋武
  • 倉田:森川信
  • 監督・浅川:平田未喜三
  • 夏ちや:中原早苗
  • 踊り子:若原春江
  • 母親A:河原崎しづ江
  • 工場長・藤野:御橋公
  • 船長:山田巳之助
  • 倉庫係・須田:谷晃
  • タイワン田辺:小笠原章二郎
  • ヤマ・鈴木:浜村純
  • 父:久松晃
  • 海軍少尉:小笠原弘
  • 重役・右橋:林幹
  • 周旋屋:武田正憲
  • 木下:花沢徳衛
  • 金比羅の辰:今成平九郎
  • 大船頭・和田:石島房太郎
  • 船頭・黒岩:伊丹慶治
  • :木田三千夫
  • :市村昌治
  • 協力出演:前進座、東京映画俳優協会、劇団東芸、少年俳優クラブ
2009年

2009年(平成21年)7月4日に公開。DVDは2010年(平成22年)1月21日発売。

主題歌はNICO Touches the Wallsの「風人」。

スタッフ
  • 監督・脚本:SABU
  • 音楽:森敬
  • 編集:坂東直哉
  • 製作委員会メンバー:IMJエンタテインメント、メディアファクトリー、マッシヴクリエイションズ、ローソンチケット、IMAGICA、スモーク
  • 配給:IMJエンタテインメント
  • 上映時間:109分
キャスト
  • 漁夫・新庄:松田龍平
  • 監督・浅川:西島秀俊
  • 雑夫・根本:高良健吾
  • 漁夫・塩田:新井浩文
  • 雑夫・清水:柄本時生
  • 雑夫・久米:木下隆行(TKO)
  • 雑夫・八木:木本武宏(TKO)
  • 雑夫・小堀:三浦誠己
  • 雑夫・畑中:竹財輝之助
  • 漁夫・石場:利重剛
  • 漁夫・木田:清水優
  • 雑夫・河津:滝藤賢一
  • 雑夫・山路:山本浩司
  • 雑夫・宮口:高谷基史
  • 雑夫・大沼:木下春樹
  • 雑夫・小池:佐々木一平
  • 漁夫・中井:岡田卓也
  • 漁夫・末村:澤原崇
  • ロン:手塚とおる
  • 雑夫長:皆川猿時
  • 役員:矢島健一
  • 船長:宮本大誠
  • 無電係:中村靖日
  • 給仕係:野間口徹
  • 中佐:貴山侑哉
  • 釜焚き係・大滝:東方力丸
  • ミヨ子:谷村美月
  • 清水の母:奥貫薫
  • 石場の妻:滝沢涼子
  • 久米の妻:内田春菊
  • 和尚:でんでん
  • 畑の役人:菅田俊
  • 清水の父:大杉漣
  • 久米家の通行人:森本レオ
  • 缶詰作りの工程のエキストラ:西本英雄(『週刊少年マガジン』掲載の「もう、しませんから。」による。9巻に収録)
読書感想文(2008年)

2007年(平成19年)、白樺文学館主催で蟹工船の読書感想文コンテストが行われた。特色として、漫画版の感想文でも可とした点、当時話題となっていた「ネットカフェ難民」に因みインターネットカフェからの感想文応募部門が設けられた点が挙げられる。2008年(平成20年)2月20日に小樽で授賞式が行われた。